本を読むということ


私は根っからイメージの人間で、子供の頃から絵本は絵だけを見て読んだことがなかった。
もちろん小学校の国語の時間も描いてある挿絵から物語を想像して自分から文字を読む事は一切しなかった。
書いてあることを読んでもらい、自分のイメージとつながって想像できれば面白いほど理解ができるのだけれど、実際私にとって本は文字がバラバラに散っているように見え、意味を成し得なかった。
もちろん国語の成績も悪かった。
私は文字を見ると頭がぐらぐらして、目の前のものが歪んで見えてくるほど本を読むことが大嫌いだった。

20代で大きな困難と試練にぶつかった。
自分と同じ経験をしている友人はいなかったし、はじめて人に話をして自分の気持ちを解決するということができなくなった。
その時私は本当の意味で本というものと出会った。
文学というものは何千年もの歴史があり、何千年もの歴史があるという事は、それだけ人が生きてきた分、何通りもの感情があったということで、その中に自分の困難、試練、それを支えてくれる表現というものが存在する。
私は本と親友になった。
自分にとって必要、大切なものとわかれば、すらすらと言葉が心の中に入っていく。
そしてそれが自分の精神性を育てることもわかった。

私はもしかしたら展覧会で自分の作品を発表することよりも、作品を本にすることの方が大切なことなのかもしれないと考える。
なぜなら本はどんな人にでも手に取ってもらえるからだ。
何かの理由で外出できない人、例えば体が不自由であったり、家庭の事情があったり、人はそれぞれ問題を抱えている。
問題を抱えている人こそ、寄り添うものが必要で、困難、試練にぶつかっている人こそ、ぜひ文学に触れてほしいと私は思う。
文字が読めなかった私がそれを求めるようになったように、そこにはいっときの憂さ晴らしや空虚な喜びではない普遍的なものがあり、必ず私たちの支えとなるものが存在しているのだから。


追記: ただ言葉で表現し得ない世界もこの世には存在します。そこでイメージと感覚の必要性が出てくるわけです。
それがこれから私が画家としてやっていく仕事なのだと気づきました。
昔のように目と手が酷使できなくなり、一旦絵が描けなくなった理由が今ここにきてわかってきています。
とらえることのできないもの、目に見えない、手に触れられない世界を表現するために私は感覚を研ぎすます必要性があるわけです。
これについてはまたいつかブログで。